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八十里越がつないだ銅の技術 燕・玉川堂7代目と仙台・タゼン19代目が伝統と革新を語る

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新潟県燕市の燕市産業史料館で20日、対談会「玉川堂×タゼン―銅を叩き、未来につなぐ―」が開かれた。燕市の鎚起銅器の老舗、株式会社玉川堂7代目の玉川基行代表取締役と、宮城県仙台市で「御銅師(おんあかがねし)」の系譜を継ぐ株式会社タゼン19代目の田中善代表取締役社長が登壇。銅を扱ってきた老舗が時代に合わせてどう変わり、技術を次代へつなぐのかを語り合った。

玉川堂の玉川さん(左)とタゼンの田中さん
玉川堂の玉川さん(左)とタゼンの田中さん

対談は、燕市産業史料館で27日まで開かれている企画展「燕〜八十里越〜佐渡 産業・工芸・文化展」の関連イベント。30人余りが来場した。

燕の鎚起銅器の祖とされる仙台生まれの職人、藤七が八十里越を通って燕に入り、鎚起の技術を伝えたとされる歴史を背景に、創業210年の玉川堂と、創業430年のタゼンの当代が顔を合わせた。

玉川堂は倒産寸前から「売り方」を変える

玉川堂は文化13年(1816)創業。1枚の銅板を金鎚で打ち起こして立体的な器をつくる伝統工芸「燕鎚起銅器」を200年以上にわたって受け継いできた。湯沸かしや急須、茶器、酒器、花器、コーヒーポットなどを製造し、近年は国内外のブランドや企業とのコラボレーションにも取り組む。

企画展で展示されている玉川堂の鎚起銅器の口打出湯沸
企画展で展示されている玉川堂の鎚起銅器の口打出湯沸

鎚起銅器は、銅板を叩いて伸ばすのではなく、金鎚で打ちながら少しずつ縮め、立体的な形にしていく。表面に着色を施した銅器は使い込むほどに色や艶が変化し、長年使うことで独特の風合いが生まれる。

玉川さんは、日本の伝統工芸を取り巻く厳しい状況を紹介したうえで、玉川堂には現在21人の職人がおり、うち7人が女性、平均年齢は34歳と説明した。

現在の姿に至るまでには大きな転換点があった。高度成長期からバブル期まで、玉川堂の製品は企業の記念品や結婚式の引き出物など贈答品が売り上げの8割以上を占めた。

しかしバブル崩壊で需要が急減。玉川さんが入社する直前の1995年2月には職人の半数を解雇し、多額の借金を抱えて「倒産寸前だった」。

玉川さん
玉川さん

大学在学中、父から「玉川堂が潰れそうだから、就職活動をしないで会社に入ってくれ」と告げられ、卒業後すぐ入社した。

玉川さんが問題と考えたのは技術ではなく「売り方」だった。問屋を通す従来の販売では、どこで誰が製品を買っているのか分からず、客の声も届かなかった。

そこで問屋との取引を見直し、新宿伊勢丹や日本橋三越などの百貨店に自ら銅器を持ち込んで売り込み、職人とともに実演販売を始めた。

客と直接接するなかで、ぐい飲みやビールカップを求める声や、父の日の贈り物として需要が高いことを知り、商品開発につなげた。

「技術というところは大前提。ただ、売り方を変えていかないと技術も残らない」。玉川さんは、販売方法を変えることが結果として技術継承につながったと振り返った。

「こんな資産を持っているんだから何かしろ」

株式会社タゼンは慶長元年(1596)創業。初代善蔵が伊達政宗に招かれて仙台に移り、神社仏閣の装飾などを手がけたことに始まる。

企画展で展示されている仙臺銅壺せり鍋
企画展で展示されている仙臺銅壺せり鍋

代々、銅を扱う職人を「御銅師(おんあかがねし)」と称し、江戸時代には神具や仏具から鍋、やかん、銅壺(どうこ)などの生活道具へと仕事を広げた。

その後は風呂釜やボイラー、住宅設備へと事業領域を変え、現在は仙台市を中心にリフォームやガス・水回り設備などを主力事業としている。

一方、田中さんの代になって再び銅を事業の核のひとつに位置づけ、伝統的な銅壺を現代向けにアレンジした「仙臺(せんだい)銅壺」シリーズや、宮城の食文化に合わせたせり鍋などの銅製品を展開している。

田中さんによると、代々の職人は銅を「赤金(あかがね)」と呼んだ。時代が平和になると神社仏閣の仕事から鍋ややかん、銅壺などの生活用品へ、その後は風呂釜や住宅設備へと事業を変えながら生き残ってきた。

タゼンの田中さん
タゼンの田中さん

田中さんが再び銅に力を入れるきっかけのひとつが、約10年前に玉川さんから言われた言葉だった。

「君、こんな資産をもっているんだから、もっとやらなきゃだめだ。何かしろ」。その言葉に田中さんは「深く感銘を受けた」。

宮城の郷土料理、せり鍋用の銅鍋などを開発したほか、高価になりやすい銅製品を若者にも使ってもらおうと、レンタルやサブスクリプション型の提供も始めた。

さらに、板状の銅を切り、折り、接合する比較的習得しやすい技法を取り入れ、若い職人の育成にもつなげた。当初1人だった銅製品を作れる職人は現在5人ほどに増えた。

銅を「買う」だけでなく一緒に作る

タゼンでは、銅と人との新しい接点として体験型のカフェを計画している。自分で銅製品を作り、その器を実際にカフェで使う構想だ。

田中さんは「ものづくりを好きな人が世界中から集まってくる。でも銅製品は見たことも、使ったこともない。であれば、自分で作ったものをそのまま使ってもらう」と話した。

製品そのものを販売するだけでなく、客を制作工程に巻き込み、「一緒にものを作っていく」ことに価値を見いだす。

対談会
対談会

さらに、銅板の経年変化を日本の「わびさび」として海外に提案すると好評だったことから、銅を建築材料として使う取り組みも進める。

田中さんは今後、主力のリフォーム事業と銅を組み合わせ、「銅を基軸にやっていきたい」とし、室内空間まで含めた展開を思い描いている。

玉川堂は海外売上が約半分 「時」を売るブランドへ

玉川堂では現在、売り上げの約半分を海外が占め、その海外売り上げの約8割を中国、台湾が占める。

中国茶やコーヒーを楽しむ層を中心に、湯沸かし、急須、コーヒーポットなどの需要が高い。職人が1枚の銅板から注ぎ口まで継ぎ目なく打ち出す湯沸かしには100万円ほどするものもある。

玉川堂が重視するブランドテーマは「時」。新品の銅器も50年使えば色や艶が大きく変わる。

燕市産業史料館で開かれている企画展「燕〜八十里越〜佐渡 産業・工芸・文化展」
燕市産業史料館で開かれている企画展「燕〜八十里越〜佐渡 産業・工芸・文化展」

「お客様に道具を育てていただく。長い人生をかけて銅器を育てていただく“時”は、お金では買えない」と玉川さん。「本当の美しさは未来にある」と話した。

伝統工芸は長い歴史や高度な技術をもちながらも、欧米ブランドに比べてブランド戦略では遅れていると指摘する。

「ブランド戦略とは、どのような生き方を世の中に提言していくか」。技術や歴史を伝えるだけでなく、その工芸品とともにどのように暮らすのかまで提示する必要があると話した。

工場の祭典も海外進出ではなく「燕三条に人を呼ぶ」発想から

ことしも10月1日から4日まで燕三条地域で開かれるオープンファクトリーイベント「燕三条 工場の祭典」が生まれた背景も紹介した。

きっかけのひとつは、フランスのシャンパーニュブランド「クリュッグ」との交流だった。クリュッグの当主が玉川堂を訪れ、職人の働く姿に感動した。その半年後に玉川さんがフランスを訪れると、今度は自分がブドウ畑で働く職人の姿に心を動かされた。

「海外に店を出すことばかり考えていたが、燕三条に人を呼ぼうと思った」。この発想が、工場を開いて職人の仕事を見てもらう「工場の祭典」につながった。

対談会
対談会

玉川さんは「作り手が自らの仕事を、自らの言葉で表現する。職人の言葉が最も説得力がある。工場の祭典とは、生産者が表現者になるイベント」と話した。

八十里越が運んだ技術

対談の最後には、今回の企画展のテーマでもある八十里越と燕の産業との関係に話が戻った。

玉川さんは、鎚起銅器だけでなく、燕の主要産業だったキセル、ヤスリ、彫金などの技術も会津などから伝わった歴史を紹介。三条の打刃物なども含め、現在の県央地域のものづくりに会津方面との交流が大きく関わってきたとした。

2027年夏には国道289号八十里越が暫定開通する。「仙台と会津の産業の歴史を学ぶことで、燕のものづくりの本質を学ぶことができる」と玉川さん。今回の対談を、八十里越を通して伝わった技術と人の交流を知るきっかけにしてほしいとした。

そして結びに掲げた言葉は「伝統とは革新の連続」。

玉川さんは「伝承は技術を受け継ぐこと。伝統は技術を受け継ぎながら、革新を繰り返すことによって技術も発展させていくこと」と話し、売り方や伝え方も含めて変化を続ける必要性を強調した。

田中さんも、銅について「何かと何かをつなげてくれる力がある」と語り、ものそのものではなく、作り手と使い手が時間や体験を共有することにこれからの価値を見いだした。

八十里越を越えて燕へ伝わった銅の技術。その歴史を受け継ぐ2人の当代は、伝統を守ることを「変えないこと」ではなく、時代に合わせて変わり続けることとして未来を見据えていた。

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