藤井大輔&芳輔の鉄道コラム「鐵道双見」
信濃川西岸の越後鐵道(越後線)敷設を実現するために越後鐵道会社が設立、さらに参宮線(弥彦線)を敷設し、弥彦公園の整備は弥彦観光の礎に (2012.4.16)

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1892年公布の鉄道敷設法が示す北越線の3つのルートに驚きの先見性

1886年(明治19)8月、新潟県内初の鉄道路線となる官営鉄道・直江津−関山間が開業し、その6年後の1892年(同25)に「鉄道敷設法」が公布された。鉄道敷設法は、鉄道国営主義に基づき政府が鉄道路線をどのように敷設していくかを定めた法律で、別表に敷設を進めていこうとする計画が列挙されている。なお、鉄道敷設法は現在失効している。

越後鐵道(今の越後線)と参宮線(今の弥彦線)の敷設に尽力した久須美父子が弥彦を一大観光地にしようと造成した弥彦公園
越後鐵道(今の越後線)と参宮線(今の弥彦線)の敷設に尽力した久須美父子が弥彦を一大観光地にしようと造成した弥彦公園

この鉄道敷設法によって、北越線として「新潟縣下直江津又ハ群馬縣下前橋若ハ長野縣下豐野ヨリ新潟縣下新潟及新發田ニ至ル鐡道」が挙げられた。なんと、直江津、群馬の前橋、長野の豊野のいずれかから新潟、新発田に至る鉄道というものであり、現在の信越線、上越線、飯山線のいずれかを敷設するというものだった。後世の今からみれば、この先見性に驚きを禁じ得ない。

北越線は現在の信越線のルートが確定したが腰が思い政府に澁澤榮一も乗り出す

この北越線は、3つのル−トで比較され、現在の信越線のルートが確定し、建設が進められることになったが、当時の政府には財政的な余裕がなく、なかなか着工されなかった。これに対し、新潟県内の有力者は早期着工を望み、さまざまな活動を展開したが、政府の重い腰を上げることはできず、実業家・澁澤榮一の力を借りて、私設鉄道会社を設立してそこが鉄道を敷設して経営していこうということになった。

この私設鉄道会社は現在の私鉄(民鉄)とは少し異なり、政府の強い関与がある一方、債権に政府保証をつけられるなど、純粋な民間会社より有利だった。さらに、私設鉄道法によって政府に買い上げられることも実業家の投資先になった。

1894年(明治27)に「北越鐵道株式會社」が澁澤らが発起人になって設立され、1898年(同31)12月に直江津−沼垂(ぬったり)間が開業した。これにより、東京の上野から、開業当初は乗り換えが必要だったものの、高崎、軽井沢、長野、直江津を経て、柏崎、長岡、見附、三条、新津、新潟まで鉄路がつながったのである。

ただ、この北越線は主に信濃川東岸(長岡や三条、新津)を通るル−トで、刈羽郡や三島郡西部、西蒲原郡の信濃川西岸では、鉄道が敷かれない結果となった。

久須美秀三郎は信濃川西岸の鉄道敷設をあきらめきれず父子で敷設に尽力

これに対し、北越鐵道株式會社で重役を務めていた久須美秀三郎(1850−1928)らは信濃川西岸への鐵道敷設をあきらめきれず、1906年(明治39)に敷設のための測量に着手した。この測量は、鐵道国有法によって北越線が政府に買い上げられることからその資金を元手に、久須美らはさらに鉄道路線を敷設しようと考えたのが濃厚である。事実、1907年に北越鐵道は国有化された。

久須美は、新潟市や西蒲原郡、長岡市、三島郡、刈羽郡を東奔西走し、北越鐵道より海側の「海岸線」計画に賛同する有志を募った。ついに、1908年(明治41)に政府から仮免許状が下付された。この時の越後鐵道会社の仮事務所は国有化された北越鐵道の社屋としていた。この関係から、越後鐵道は北越鐵道が国有化されその後継会社としての位置づけができよう。

越後鐵道への仮免許状が下付されると、本格的に鐵道敷設のための会社設立や敷設や経営計画をより具体化しなければならないが、日露戦争後の不景気で会社の設立は危ぶまれた。久須美の子・東馬(1877−1947)は安田財閥(現在のみずほFGの前身)の安田善次郎(1838−1921)に資金援助を要請した。安田は最初、援助を渋っていたが、最終的に5,000株の引き受けを快諾した。これが決定打となり、会社が正式に設立されるめどがついた。

1911年(明治44)3月10日、新潟市で創立総会を催し「越後鐵道株式會社」が正式に設立された。この当時の会社の重役には新潟の実業家や豪農・大地主が名を連ねていた。

翌月から建設工事が進められた。白山(旧)−吉田間、石地−柏崎間を第1期、吉田−石地間を第2期とし、白山駅に本社と機関庫などを建設することとした。新潟側のターミナルを信越線の沼垂ではなく白山としたのは、信濃川に架橋する資金に不足したからだという。大河津分水や関屋分水が開鑿されておらず、信濃川の川幅は今よりはるかに広かった。

越後鐵道の次は参宮線、今の弥彦線の敷設に着手、私財で弥彦公園を整備して弥彦観光の礎を築く

1912年(大正元)8月25日、白山−吉田間が開業し、内野、曾根(今の越後曽根)、巻、和納(今の岩室)の各駅も開設された。白山−吉田間の開業から1年と経たないうちに、柏崎−石地間、吉田−地蔵堂(仮)(今の分水)間、石地−出雲崎間を次々に開業させ、1913年(大正2年)4月20日に出雲崎−地蔵堂(仮)間が開業し、当初計画の全線が開業した。

弥彦駅を正面から
弥彦駅を正面から

現在の越後線を全通させ、次に久須美らが鐵道敷設を進めたのが現在の弥彦線、当時の「参宮線」である。越後一宮として今も人々の参詣が多い彌彦(いやひこ)神社への参詣客を吉田からの鉄道を敷設して運ぼうと考えたのである。いわば江戸時代の「お伊勢参り」の近代版である。

久須美らは私財を投げ出して弥彦駅前に弥彦公園を整備した。温泉が噴出する弥彦を単に彌彦神社への参詣客のみを当て込むのではなく、弥彦を新潟の一大行楽地にしようとした。このころに敷設される鉄道路線は神社・仏閣への参詣客を当て込んだ路線がほかにも多く、鉄道は沿線開発とセットで考えられるようになっていた。

1916年(大正5)10月16日、参宮線・西吉田(吉田から改称)−弥彦間が開業した。ただ、この区間だけ鉄道を敷設しても広く参詣客が弥彦に訪れるとは限らない。やはり、先行して鉄道が敷設されていた北越線(現在の信越線)につなげようとするのは自然の流れであり、西吉田から東へ参宮線を延伸させることになる。1922年(大正11)4月20日に西吉田−燕間が開業した。ことしはそれから90年の節目になる。

越後鐵道(今の越後線)と参宮線(今の弥彦線)の敷設に尽力した久須美父子が弥彦を一大観光地にしようと造成した弥彦公園
弥彦駅の正面の看板

越後鐵道會社はさらに東へ延ばそうと計画を具体化させていく。南蒲原の一大地・三条へ鉄路を延ばすのである。ここで問題になったのが、信越線との接続駅を三条駅にするか、一ノ木戸駅(現在の東三条駅)にするかという問題である。

この後の越後鐵道の物語は別項のお楽しみとしたい。

(文・藤井大輔)

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