新潟県三条市の文化の一翼を担い牽引しながら今は活動休止状態になっている三条演劇研究会は27日、半世紀にわたる活動資料を三条市歴史民俗産業資料館に寄贈した。資料の散逸を防ぎ、地域に根差した文化活動の記録を後世に伝え、これを機に再び市の文化が盛り上がる「ルネサンス」ルネサンスのきかっけになることを期待している。
三条演劇研究会は、三条高校と三条東高校の三条市内の2つの県立高校の演劇部の卒業生が1952年(昭和27)に設立したアマチュア劇団。1990年代後半ごろから活動休止状態にあるが、約半世紀にわたって活動した。
戦後の文化振興の気運のなかで生まれ、地域に根差した創作劇の上演や、ほかの分野の文化団体との交流を通じて三条市の文化活動の中核を担った。地域の歴史や人物、社会問題を題材にした創作劇を数多く上演した。
三条市の小説家だった緑川玄三さんの新聞連載の歴史小説を原作とした『三条太平記』、三条市中央公民館のこけら落とし公演で上演した『稲の花散る』、 江戸時代に私財を投げ打って五十嵐川の築堤に尽力した三条の偉人、松尾与十郎を題材にした『築堤物語』。
当初は武徳殿(今の歴史民俗産業資料館)を主なけいこや公演の会場とし、1981年(昭和56年)に完成した三条市中央公民館でこけら落とし公演を行った。春と秋の年に2回、定期公演を続け、300〜400人の観客を集めた。
補助金に頼らず、メンバーが市内企業を回って集めた広告協賛費で運営資金をまかなった。当時のパンフレットには、多くの地元企業の広告が掲載されている。舞台セットは、地元の建設業者などから場所や材料の提供を受け、メンバーが製作した、地域全体で劇団を支えていたことがうかがえる。
戦後の三条で文化活動の拠点となった文化人サークル「二十日会(はつかかい)」:。当時の三条新聞社社長・斎藤庫之助氏が主宰し、作家の緑川玄三氏などが参加していました。演劇研究会もこうした文化的な土壌の中で、ジャンルを超えた交流を深めながら活動していました。
演劇活動だけでなく、三条祭りの名物、大名行列の奴(やっこ)の担い手が不足したときには、メンバー総出で協力。し、伝統文化の継承にも大きな役割を果たしました。しかし徐々に衰退して実質、活動を休止した状態になって20年以上になる。
27日は会長の五十嵐正志さん(88)と佐藤春男さん(71)、中村昇市さん(71)、明田川克已さん(71)の同学年のメンバー3人が寄贈資料の一部を持参して市役所を訪問した。半世紀にわたる活動で蓄積されたポスター、脚本、写真、パンフレットなどの貴重な資料一式の寄付目録を五十嵐さんから滝沢亮三条市長に手渡した。
五十嵐さんは三条高校で演劇部の部長を務め、明治大学演劇映画科を卒業。東京中央郵便局で働きながら日本四大劇団として劇団民藝、俳優座、文学座と並び称された劇団ぶどうの会に入団したがその翌年に劇団ぶどうの会が解散した。
アングラの芝居などに参加して3年ほど過ごし、34歳だった1970年にふるさとに戻った。高校時代から会員ではなかったが三条演劇研究会に参加していた。帰郷すると三条演劇研究会の活動が続いていた。見に来てほしいと言われた見に行った。
五十嵐さんは「食い詰めて東京から帰ってきて、仲間と芝居を手伝ったのが運の尽き。でも本当に楽しかった」と当時を懐かしんだ。すぐに会長に就き、解散も会長交代もないので今も五十嵐さんが会長だ。
五十嵐さんは自宅にけいこ場を作った。関係資料はそこに置いていたが、4年前にけいこ場を壊した。「そのときに資料をオレがもっていてもしようがない」(五十嵐さん)と会員に配ったが、散逸するのももったいない。どこかに飾ってもらえればと思い立った、会員が資料を持ち寄ってくれ、まとめて寄付することにした、
今回の寄贈は、その記録を残してほしいのはもちろん、三条市は合併20周年になったが文化活動ではものすごく盛んだった当時と比べると、ずいぶん変わってしまった。「これを機に刺激をして、また再び三条の文化活動に市からも目を向け、後押ししていただきたい」、さらに「文化団体、演劇研究会の活動などを紹介するイベントをぜひ市でやってほしい」と求めた。
寄贈資料は7月24日にまとめて三条市歴史民俗産業資料館別館「ほまれあ」に持ち込む。三条市では今回の寄贈を契機にさらに資料を集め、ポスターやかつて三条市にあった三条座の写真などの展示会を「ほまれあ」で開く考え。五十嵐さんは「ルネサンスになるんだな」とご機嫌だった。
滝沢市長は自身が生まれる前の古い資料の数々に興味津々。「貴重な資料を大切に活用させていただきます。貴重な話しをたくさん聞かせていただきありがとうございます」と感謝した。