新潟県の三条市の合併20周年記念式典が10日、三条市体育文化会館「たいぶん」で行われた。2005年5月に旧三条市、旧栄町、旧下田村が新設合併してから20年。500人近くが出席してその節目を祝った。
滝沢亮市長は式辞で、合併から20年の歩みを振り返り、2011年の7.29水害などの自然災害や感染症の困難を市民が団結して乗り越えてきたことを述べた。
三条市立大学の開学、図書館等複合施設「まちやま」の開館、新潟県央基幹病院の開院など、三条市が着実に発展を遂げてきた成果を挙げ、これから国道289号の八十里越(はちじゅうりごえ)を含む全線開通への期待を話した。
「先人から受け継いできた歴史と文化、地域の発展を支えるものづくりの伝統を次代に継承するため、また誰もが安全安心に暮らせる選びたくなるまちであり続けるため、私たち三条市民は共に歩み続ける」と式辞を読み上げたあと、目線を上げて「皆さんと一緒に合併20年をお祝いできることを心からうれしく思います。今後も一緒に頑張っていきましょう」と参列者に呼びかけた。
森山昭市議会議長はあいさつで、市民との協働によるまちづくりの重要性と今後の展望について話し、「皆さまの声をていねいに拾い上げ、まちづくりに生かしていくことは、私たち市議会に課せられた責務であり、これからも市議会は市民と対話と協働によって三条市を支えいく」と述べた。
そのうえで八十里越開通により福島県側から三条市を訪れる人が増加すると見込まれ、県央エリアの玄関口としても交流人口の拡大につながることに期待。「県としても、佐渡の金山の世界遺産登録、新潟空港を拠点とするトキエアの就航、伝統的酒造りのユネスコ無形文化遺産登録など明るい出来事が続いていることから、これを大きなチャンスと捉え、三条市とともに交流人口の拡大に向けた取り組みを進めていく」と述べた。
菊田真紀子衆院議員は、八十里越の開通や80里越えが全通開通、アウトドアの聖地としての発信に期待し、「これまでの20年の土台に、三条市が次世代へ輝かしい可能性と希望をつなぐまちとして、さらなる発展を遂げられることを心より願う」。
元三条市長でもある国定勇人衆院議員は、三条市が新陳代謝を繰り返して「引き続き皆さまの幸福を追求し、三条市という名前が日本のみならず世界からも認知される、その追求に向けた歩みを留めることはないと思う」、「わたしも衆議院議員という立場で引き続きこの地に尽くしてまいる」と述べた。
また、市民憲章は三条市が合併した年に三条市に生まれた男女2人が行った。
式典後はアトラクションで、三条市立一ノ木戸小学校凧ばやしクラブによる「三条凧ばやし」の踊りと演奏、SUNS DANCE SCHOOL(サンズダンススクール)のHIPHOPダンス、新潟県央ジュニア合唱団 "ブレーメン"の合唱が披露された。
三条市はこれまで市民憲章を出席者全員で「唱和」するのが一般的だったが、今回は代表の2人だけが「朗読」。新鮮だったが、どういう理由があったのか興味深い。「唱和」は声が合わなくてぐだぐだな感じになることがあるのを嫌ったのだろうか。
国定氏が祝辞を述べようと席を立って歩き始めたときにすぐ歩き方に違和感を覚えた。何かあったんだろうかと考えている。マイクに向かった国定氏が自ら説明した。
「冒頭、20年前、33歳だったわたしも、この20年という残酷とも言うべき年月、自らの体にも同様の年月の積み重ねや重なり、一昨日ふと歩いていたところ、右足のふくらはぎに破裂音が聞こえ、華々しく肉離れを起こしてしまい、こうして皆さまがたに見苦しい格好でごあいさつをさせていただくことを、まずおわびを申し上げたい」。
国定氏のXアカウントを確認すると、前日9日は松葉杖をついて登院したとのこと。その後、たまたま国定氏の奥さんにばったり会い、とくに運動をしたわけではなく、ふつうに歩いていたのに肉離れを起こしたという。
少し前に大阪万博へ行ったらしいので、疲労がたまっていたんだろうかと勝手に想像してみたりした。
国定氏が総務省から三条市へ出向したのは2003年。39歳になった滝沢市長より8歳も若い31歳だ。
その後も祝辞で国定氏は「わたしの体と違って三条市は新陳代謝を繰り返していく」、「建物は新陳代謝を行い、この素晴らしい三条市体育文化会館が華々しくリスタートを切った」と自身を当てこすって卑下するような話をした。
50歳を過ぎれば加齢にあらがってばかりもいられず、受け入れることも肝要。こちらは人生の先輩だが、それにしても思えば遠くへ来たものだ。