一方で「ファッションでは小説や映画で泣くような感動を味わったことがない。わたしは感動を与えられる仕事がしたいと思った」。14歳から18歳までそれを実現させようとしてきた。情熱と努力と前向きさをどう表現するべきか考えた。
その答えをたまたまた知り合いのつながりで鑑賞した小劇団の舞台に見つけた。舞台衣装に感動した。「こういう手段でわたしも自分で作ったもので感動させられることに気付いた」。その1週間後には会社に退職を申し出て、1年で縫製工場を辞めた。
「わたし、ラッキーなんですよ。だめだなと思ったときにきっかけがあらわれる」。鑑賞した劇団から舞台衣装の制作を頼まれ、フリーランスで受けた。学生時代のアシスタント先からも仕事が入った。24歳になった2006年、そんな活動を聞きつけた人から、かばんとアパレルの会社の立ち上げで服を作れる人がいないからと参加を頼まれて手伝うようになった。
舞台衣装ではイカラシさんらしいこだわりを発揮した。着る人の気持ちになりきろうと、実際に役者も体験してみた。服によっては事故の危険があったり、着替えに時間がかかりすぎるものがあったり。機能面から舞台衣装を考えるようになり、裏側から舞台を支える経験もした。
仕事は順調で、いろんなことを学んだが、忙しい割にそれに見合う収入にはつながらなかった。作り手が軽んじられていると思った。メードインジャパンと言いながら、多くの工程が工賃の安い海外で作られている。日本でも縫製の仕事が成立するような環境がつくってほしいと思った。自分が歯車の一部になっており、11年に会社を辞めた。
すると今度は、ファッションショーの服も手掛ける米国・ニューヨークのパターンメーカーで働かないかと声がかかった。そこで必要とされるだけの技術がないことは自分がいちばん良くわかっていたが、それを承知で引き受けたが、結果は「技術力のなさに打ちひしがれた」。
そこには世界からスペシャリストが集まっていた。「同じ洋服を作る仕事をしていて、日本人であるということはどういうことか、日本人の技術が必要とされる理由は何だろうと考えさせられた」、「14歳のときから縫うためだけに勉強してきたわけじゃない。そこに必要だったのは、縫うスペシャリスト、日本で日本人として日本人に対してモノを作ることがいちばん難しいと思った」。
