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布モノ作りの三条市のイカラシさんが21日からツバメコーヒーで仲間たちと「SHOW CASE Vol.1」(2/4)

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「誰かとつながって相乗効果が生まれたらいい」、「こういう舞台をもって表現することが、ひとつのまちづくりになると思う」。作品展を目前にイカラシさんのイメージは明るい。

6月の御坊市に出店したイカラシさん
6月の御坊市に出店したイカラシさん

「遅刻も欠席もしないし、成績はいちばんをとるから行かせてほしい」。イカラシさんが両親に懇願したのは、見附高校家政科への進学だった。ちゃんとした服の作り方を1日でも早く覚えたかった。筋金入りの服飾デザイナーになりたかった。

そこまで熱い思いをたぎらせたきっかけは中学2年生のときに出会った女性ファッション雑誌『Zipper(ジッパー)』にさかのぼる。原宿系のファッションを提案し、個性的なファッションが誌面を飾り、奇抜なセンスに「こういう表現の仕方があるのかと思った」。

やたらと個性が叫ばれ、自己表現の手法としてファションをとらえた。自分に何ができるか、自分は何者かと考えるようになった。あらためて振り返ればまさに“中二病”とも言われる思春期のまっただなか。愛読誌はアイドル雑誌からファッション雑誌に変わり、服のボタンを全部、付け替えたり、スカートのゴムを切ってデザインを変えたり。両親がまゆをひそめるような「変な格好ばっかりしてた。シノラーみたいな」。

初めて作ったのは、赤いスカートだったと記憶している。前に白いポケットが2つあり、そこに顔に見えるようにボタンを並べた。

高校の勉強は物足りなかった。それだけでは同い年のライバルに負けると思った。放課後も被服室にこもり、先生の指導を受けたり、昔のファッション雑誌を読みあさったり。志の高さに先生からもかわいがってもらえた。「本当に勉強ができた」と言い切れるほど頑張った。

高校卒業するとファッションの専門学校、東京の文化服装学院へ。中二ですでに文化服装学院への進学を目指していたが、あらためて進路についていろんな人に話を聞いたり、あこがれるデザイナーの経歴を調べたりした。彼氏ができたら東京へ生きたくなくなるから、彼氏もつくらなかったという純情なエピソードもある。

文化服装学院では1年で総合的なファッションの勉強をし、2年以降はアパレル技術科で徹底的に技術を磨いた。全国からデザイナーを目指して集まって来た人たちのなかでイカラシさんは限界を感じた。自分より才能のある人がたくさんいた。「地方出身で才能をもない。そのコンプレックスを埋めようと頑張った」。

デザイナーがすべてではない。「自分はどうしたらいいだろう、何ができるんだろう、何をしたら強みになるんだろうと考えた」、「つぶしが利くような技術を身に着けようとした」。しかし決して後ろ向きではなく、「誰かからわたしが必要とされたときに必要になるものを準備しておこう」と切り替えた。

文化服装学院の先輩から2年生以降は外へ出ろと言われ、学校に通いながら好きなデザイナーのアシスタントに就いたりした。卒業すると高級婦人服を作る縫製工場で働いた。毎日午前8時から午後11時まで働き、同じことの繰り返し。アイロンがけばかりで、作業時間をストップウオッチで計測し、トイレに行く時間も作業を急いで時間をつくり、ダッシュして行くような過酷な労働環境だった。

生まれた製品は国内のセレブが着るほどの高級品。その裏では、「うら若き乙女がぼろぞうきんのようになって作っている。給料は驚くほど安い。ほかに国では女の子がこれ以上に過酷な生活をしていると思ったら、気持ち悪くてやってられないと思った」。自身もグルーバル経済の犠牲者だった。働き始めて半年で気持ちは切れていた。

そして気が付いた。「こんなことをやるために14歳のわたしはやってきたんじゃない」。中学2年のときの初期衝動がイカラシさんにとって原点であり、最も守るべきものであり、岐路に立った自分の羅針盤になった。「14歳のときの自分が、選択が正しいか、正しくないかを判断してくれる」。

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